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痛みを受け入れて

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わがままな思考に陥ってしまっていると、自分の痛みばかりしか認識できず、
相手がどれだけ今までリスクを回避するために努めていたか、
どれだけの痛みを伴ってきていたのかを評価できない場合があるんではないだろうか。

そのリスクとは、軟着陸することであり、そのために、実は陰で犠牲にしたもの、
つまりは見えないところ、見させないところで、リスクを払ってきていたという言う事を見ずに、
現状では着陸できている事を、当事者として当たり前だと思うのは、稚拙な現実主義のように思う。

見えているものを、実現させるためには、
見えていない部分で、あまりに多くの犠牲が、実はあることを、想像することも必要だ。

自己本位になっているときに、主張もすべてが自己本位で、
相手の見えていない時間を想像する力が欠如していて、
見えている部分で、着陸できている現実を、話のベースとしてしまう。
それでは話も噛み合わない。

なぜなら、日本語には建て前と本音がある。
本音だけで会話を成立させてしまえば、それは楽。

それが理想だろうか?
そんなことはない。

しかし、実は本音というのは『欲望の正体』であり、
相手のことを、本気でおもんばかろうとする時に、建て前がある。

建て前というのは嘘ではなく、相手のことを最優先した結果の言葉でもある。
その時には、欲望の正体である『本音』を口に出せない。
それこそが配慮。

つまるところ、建て前だから、真剣じゃない・・・のではなく、
建て前だからこそ、その建て前のためには、見えない犠牲が陰に存在しているということ。

その見えていない犠牲は相手のために。

それが、わかる人もいれば、想像することすらも出来ない人もいる。

例えば病院で、何らかの告知を受けたとする。
その時に、医師が相手のことをおもんぱかって、
『もう退院ですね』と言うことがあるだろう。

その時に患者の方が、この医師は完治していない自分に対して真剣ではない…
と判断したらどうなるだろうか。

医師には、それ以上の考えと、思考、悩んだ上での決断としての
『もう、退院ですね』という言葉であって、

この医師は、あくまでもその患者のこれこれからの事、
そして生きている時間のことを考えて
病院から解放しようとしたのであって、その患者を見捨てたわけではない。

そこに対して、患者から『この医師はだめだ』と裁判を開かれたら、
医師としては、情けないことこの上ないだろう。

医師であるならば、そりゃ、すべての病を取り除きたい。
しかし、それは本音ではあるが、『生きること』を患者本位で考えたとき、
患者のことを考えたら、実験台にしている・・・となることだってあるだろう。
だからこそ、退院させるのだ。

自分は治療を進めたくとも、本音と建て前、それを天秤にかけて、
医師としてできることを断念し、患者を、『活きる時間』に放つわけだ。

それを、見放された・・・と取られてしまっては、
あまりに患者の方の思考が傲慢である。

こういう事は、医師から、慎重なる病の告知をされたことがある、
そんな経験者でないとわからないのだろうか…。

医師と患者の間にはケアマネージャーがいたりもするが、
日常においては、それはない。

だからこそ、想像力、思考力は常に持ち続けたいもの。


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