今日は、小学校で先生をやってきた水曜日。
国語の大切さを、感じる。
でも、それは大人の世界での方が多い。
国語教育が、言葉の教育…だけではないと言うことを自覚しないとならないと感じている。
善意の広告になんちゃらかんちゃらクレームをつける方々は、広告の主張する『本質』を分からないから。
これは読解力の問題。
どんな名作だろうと言葉尻捕まえれば批判出来るだろう。でも、それは本質じゃないよね。
例えば、こう言うやつ。
東急電鉄のマナー広告。
本質以外を突っ込んだら、いくらでも、何でも批判出来ちゃうでしょう。
でも、その点で批判すべきは、この広告じゃーない。
読解力です。
読解力の欠如はなはだしいから、
批判出来ちゃう方々がいらっしゃる。
東急電鉄「車内で化粧はみっともない」 啓発広告に賛否両論の嵐 j-cast.com/2016/10/262817… #マナー問題 #化粧 #東急電鉄 @jcast_newsより
『これは、何を1番に伝えようとしているのか』
小学校2年生の国語で学び、
主語述語、そこには、1つの正しい答えと言うものがあります。
その順序をちゃんと学ばなければ、
共通の認識を共有する『言語』の意味がなくなる。
都合良く自分勝手に理解しちゃうのは、読解力の欠如の端的な現象だと思われる…。
つまり、単語や事象側面のみを捉えて批判するのは、お門違いと言うこと。
戦争映画だって、絵の端っこで死にゆく人にもドラマがあるわけで、
そこ話始めたら、趣旨が違っちゃう。つまりは、どこにフォーカスするか。
フォーカスされている点を読み解く読解力が疎かになっていると感じる。国語教育の責任だなぁ。
もっと、言葉には『正解』があること、
正しい読み解き方があること、
それを教えないと、自由な解釈をし過ぎると、言語ではなくなってしまうのだから。