連休明け、その最初の夜・・・。
外は雨模様だけど、人の心も雨模様なんだろうか?
最近は仕事から帰ってきて、子供の寝る時間に合わせて、一回寝て、それから起きてのこの時間、やっとデスクに向き合う時間になる。(笑)
さてさて、
人間が社会を形成する上で、良い方向に向かっていくためには、罰則があることよりもむしろ教育の方が、あらためて重要だと感じるこの頃。
近頃感じていたと言うわけではないが、なぜ近頃と言う言葉を使うかと言うと、近頃、
とみに罰則の強化など、底辺に合わせた主張なり
制度が目立ってきているからに他ならない。
つまりは底辺に迎合することで社会全体の引き上げと言うよりも、
むしろ〇〇しなければいいや…
と言う概念を作り出してしまう危険性はないだろうか。
屁理屈を並べなければ、そこに合致しない限りは
無罪放免などと言うようなことを考えだす輩もいるわけである。
こういった罰則を受けるようなケースというものを底辺と考えた場合、その底辺ばかりに目が向いていってしまい、その底辺が基準となることを危惧するばかりである。
本来は、罰則に抵触するであろう底辺というのは、
ごく稀なケースの存在として認識されるべきであって、
社会全体がそこに合わせてしまう制度化してしまうということが、
なんとも情けなく思う次第。
『常識』と言う言葉がある。
しかし『何が常識か』ということを、いちいち議論しようとする傾向もある。
情けないばかりじゃないか。
常識を屁理屈に使う輩もいる。
これまでは『常識=一般的な概念、良識』として考えられていたわけだが、
その常識すらも制度化、数値化することによって、
常識ではなくルールにしようと言う動き。これを危惧する。
幼稚園の子供に、『〇〇をしたらダメだからちゃんとしましょう。』
『〇〇をしたら× ×になってしまうからやめましょう。』
といったようなことを教えている教え方・・・かのように思ってしまう。
本来であるならば、良い方向を目指して教育と言うものや社会があるべき。
ルールだらけの幼稚園は、それこそ敬遠してしまわないだろうか?
そんなところを、ルールによって、その常識を定めてしまうということが、
なんとも底辺に迎合すると言う事えとつながっているんではないかと思うわけ。
交換条件で餌を与えられているような子供たち、
『〇〇したらこれができます』
『〇〇さえしなければ、普通でいられます。』
…と言うようなマイナス側面さえクリアすればそ、
れが常識であるかのような錯覚に陥ってしまうのではないか。
難しい例えではあるが、上昇志向によって新技術の開発などをせず、
クレームが出ないようにするために機能をシンプル化して、
しかもそこでリコールしないようにものづくりをしているような、
守りに入っている自動車メーカーがあるだろうか?
心の上昇志向ではなく、あくまで、心や精神の問題であるにせよ、
クレームが出ないようにリコールが出ないようにして、
何かとルールの策定により、難しい判断から逃れる。
もしかすると責任者の責任逃れなんではないか…
はたまたそれは人間個人の責任逃れにもなるのではないだろうか。
心の上昇志向ではなしに、〇〇さえしなければという常識につながっていってしまうと、
それこそとても寂しい人間社会なんじゃないかな。
まずは、我が家の中から、ルールを設けないでいいような家族にすること。
今、いくつかルールがある。
でも、罰則ではない。あくまでそっち側ではない。
それが定着すれば、良い方向に向かうように、
ルールは撤廃する。
そういうところから、小さな反抗をしてみる。