言葉と行動について、話すことが仕事だからこそ考えることが多々あるが、
想像力も豊かに、はたまた1つの言葉から想像できる多様な現実を想定することも、僕は、俳優と言う仕事柄、それを専門的に勉強し、ワークショップにも多くさんかし、訓練をしているから、とても得意な分野である。
だけれども、その言葉を使う前提自体が崩れていれば、意味不明と言うこともある。
相手のことを、一切知らずして、自分の想像の中だけて、相手の人物像を作り上げ,
その上で,
そんな、勝手に作り上げられた人物像をベースに、ひたすら必死に語りかけられてしまっても、こちらはお手上げと言うもの。
まぁ、いろいろなところで人間関係のトラブルと言うものはあるだろうが、
僕にまつわるところで見かけるトラブル等と言うのは、
僕が直面している問題に比べると、それこそ稚拙な問題かのようにも見受けられる。
ストーカー規制法だのなんだの、気軽に言葉として安易に使われるてるケースを見ると、
これが、実際にはどれだけ大変な『証明作業』であるかを、ご存知ないのだなと、思わず、子供の喧嘩のように思えてならない。
相手にしないのが、一番なのです。
例えば、実害の証明も大変なものです。
気持ち的に傷ついたとか、不愉快だと言うことを、証明…
これは、ストーカー規制法では、扱えない範囲だと多くの方が理解していないのだなと。
おそらく、一般的な感覚からすると、想像以上にストーカー規制法を使う人間関係と言うのは、証明が難しいものであるのです。
ストーキングされたとしても、実害を証明しなくちゃならない。
それは気持ちの問題ではなく、どう言う実害が存在したのかを、
書面で証拠として証明し、裁判所に提出、これを出来なきゃならないのです。
で、また難しいのが、その実害を自分が被る、被ったことを、自分だけでは証明にならず、
もし、第三者が実害を被った場合、訴えられる権利を持つのは、自分ではなく、その第三者なのです。
そう言うことを知らず、そんな言葉の応酬を繰り返している状況なんかを見ると、
その現状に直面している内側から、それを見れば、ほんと、稚拙なやり取りにしか見えないわけです。
さて、それらは置いといて、
その原点は、言葉の一人歩き。
言葉の一人歩きは怖いもの。
ましてや、互いを知らない関係で、言葉が一人歩きすれば、言葉のニュアンスは皆無であるケースも。
メール文化によって、あまりに言葉が誕生し過ぎる現状を考えると、単語ひとつひとつが、安っぽくなってしまっているとも感じる。
手紙文化のように、一語一句を吟味しながら言葉を編むことも、必要な事じゃないか。
今だからこそ。