今回のフジテレビ、グッディのインタビューを受け、ほんと、情けなくなるばかりな、今…。
実は、
それ以前に、なんで兄として妹の快挙を
祝う事が出来ないのだと言う批判もいっぱい受けました。
だけれども、それは見出しだけを読んでまたは見出しだけから想像して僕に投げかけられた言葉でした。
僕の番組にも、おめでとうメッセージが届いたり。
それを、僕は、どう受け止めるべきだったのでしょう。
それをを、不快に感じたら、ダメだったのかと。
人の命の灯が消された…と言う事実。
それが弟であると言う事実。
それを無視して、やはり妹の快挙と言うものは祝えないものです。
たとえ父親が同じであろうとも、誰か他人の心を思いやること、人の悲しみを想像することのできない人間であると言うのは、僕は悲しい限りです。
人にされて嫌な事は、他人様にするな。これは基本ではないでしょうか。
美しい女性と言う基準に関しては、僕は母を見て思うところ、学ぶところがいっぱいあった人間です。
その基準からすると、外見ではなく、
心の内の問題。そこが美しい女性きれいな女性と言うのも、言葉の上でも、日常でも大切なことなんではないでしょうか。
仮にもし、彼女が違った形でがんばっているのならば応援できたかもしれません。
しかし今の彼女の頑張り方では、悲しむ人が複数いると言うことを彼女はわかっていないのかなと。
もしわかっていないのであるならばそれはデリカシーに欠けると言う判断に僕らはなってしまう。
僕はすでに、社会に出て、良いことも悪いことも褒められも怒られもしてきました。
完全なる模範的な市民であれ!ということではありません。
そうではなくてももし芸能界に身を置くのであるならば、
人の気持ちのわかる人間でなければ、芸能界に身を置く資格はないと僕は強く思うのです。
離婚の時に、慰謝料も求めず、
凛として、
最大限譲歩し、
一人の俳優のその後の歩みを止めなかった、配慮をした、その時の妻、
つまり、僕の母という女性に対し、
そこからまた大切な子供までも自殺に追いやられ、それでもまだ、
元、夫を破滅させるような言葉を口にせず、配慮した女性に対し、
自身の子供、僕の弟でもある三男の死後もなお、
配慮という名の下に、慎み深く、言葉を発することのなかった、僕の母親に対し、
これ以上にも、仕打ちになるような事、繋がることをするのは、やめて欲しいと願うばかり。
でも、そんな配慮を察することなく、
芸名?とし、名を使う事の出来てしまう彼女というのは、
僕の母が、最大限の慎みを実践していたからゆえ、今がある。
今、僕らも、彼女も、その恩恵を受け、今があるのにかかわらず、
それに気付かないからこそ、
今の活動が出来てしまっているのかな…などと思う、近頃です。
人は自由であるべきですが、
宿命というものもあると思うのです。
その逃れられない宿命の中で自由なんではないかなと。
そこには、自分の背景というものがあります。その背景を背負うならば、せねばならない配慮もあるわけで…。
もう、これ以上、母を、そして僕らを苦しめないで欲しいという本音。
以上が、僕が取材に対し、答えた趣旨でした。
その上で、
突如として、墓を作らなきゃいけなくなった時、
父が自殺に追い詰め、僕らから奪った弟を送るとき。
僕らは、残された『岡田』として、お墓をつくり、弟を埋葬しました。
今回の取材で、『岡田という姓は名乗るな』と僕は言っていません。
6回ほどにわたり、ディレクターさんに『この一言、岡田という姓を名乗るな!と、どうしても言って下さい。そうでないと、帰れないので…』というような事を言われ、
何度も、
『僕には、そんな事を言う権利はありません』と、お断りしていましたが、
そのカットは、しぶしぶ、CM用のセンセーショナルなカットとして、懇願されて、一言を。
他にも、『裁判にして訴えたり、しないんですか!!』と。
逆に僕は、『そんな事、出来るはずないですよ。それは彼女の自由なんですから。』と。
逆に笑ってしまうくらいに、センセーショナルにしようとしてるんだなと、感じました。
今回、
RADIO BERRYのスタジオで取材に応えたからこそ、
ちゃんと全てが録音して、そんなやり取りなんかも、残されてるわけです。
人は自由であるべきだけど、配慮という言葉を知ることも、素敵な女性ならば、ないと、だめでしょ。どうなの?と。
今回、コメンテーターのみなさんは、あのスタジオで曲解され、勝手に作られてしまったものを、説明受けてなら、当然のコメントだなと。
謝罪されたって、放送されてしまったものは、もう、勝手に一人歩き。
放送で大切にすべき事、
明日のNack5、RADIO PHANTOMの放送に向けても、反面教師になるコンテンツだったなと、振り返るばかりです。