すごいいっぱいの子供達を前にして、
楽しい時間を過ごし、
そんな子供達から、お父さんお母さんの自慢を聞くとき、その誇らしげな口に、何度となく喜びを見つける瞬間があります。
最近は、テレビのコメンテーターの方々の中でも、
女性の幸せが、
見事に一元的な見方でしか語られない様になってきたとも感じるのです。
多様な価値観とともに、
多様な幸せがある。
そこには、僕らオトコでは味わえない様な母親ならではの特権ともいうべきものがあることだろう。
いや、間違いなく存在していると実感もする。
また、こう表現すれば、一元的な価値判断の先駆者様から怒られそうだけれども、
何をもって平等というのか。
その平等は他人によって決められるものでもなく、
本人が公平感と幸せを享受出来ていれば、
それは平等の大原則と認識できないだろうか。
贅沢な瞬間。
寿司屋で、僕は貝刺しが好きで、
中トロ、メカトロなんかも好きで、
はたまた、十四代なんてお酒がありゃ、そりゃ、幸せだが、
同じものがカウンターに並んだって、幸せには感じない人だっている。
かたや、そんな高級店でも、
『カニマヨ!』って頼んじゃう様な。
そんな人には、不公平感満載の高級店。
浜寿司の方がよほど幸せだと。
僕なんかは、最高級ワインでもてなされても、
松竹梅の豪快やら、ハイサワーの方が幸せな時が多い。
それを今、画一的に
高級ワイン=幸せ
という価値観の元に色々な議題が、平等という土俵の上でばかり話されている様な感覚を覚える。
また、そんな土俵に乗ってしまわされ…て、自分の生活を見る事で、実質的に幸せを喪失しているんじゃなかろうかとも見受けられたり。
まあ、その感覚だって、他人である僕が勝手に想像するばかりの領域でしかないのだが…。
でも、具体的に行政サービスの子育てサロンなんかを訪れると、子育て専念して、そりゃ、世帯収入は以前よりずっと減ったけれど、
幸せレベルは格段に上昇したという方々を多く見るし、出会い、話す。
何を幸せと感じ、なにを不幸せと感じるかは、そりゃ自由なんだけど、
でも、食わず嫌いで、ないしは
画一的な価値観の元に、不幸せと考えてしまうのは、非常に勿体無い。
この問題については、取材時間は多く割いている自負があるのだけど、
保育士さんが言っていた言葉が、強烈な印象。
いまや、お母さんと一緒の時間より、
私達と一緒の時間の方が多い子たちもいるんです。
極端に言えば、子供が起きてる時間は、絶対お母さんより接している時間が、多い。
だけど、お母さんは一対一、
こちらは、一緒の時間が長くても、
一対二十とかですから、親御さんには同じ時間では絶対勝てないんです。
それでも、私たちの方が実質的に多い時間を過ごしている。
結局、子供が大人から受ける愛情の総量は劇的に減っているかもしれません。
それが原因だと思うのですが、
言葉に表情の無い子供が多くなってきているのも、現実です…。と。
待機児童の問題が『保育園の数問題』に画一的な価値観で見られがちだが、
総活躍社会が、総、収入ある環境人員社会と解釈されたり…。
待機児童の問題野本質は、待機児童を減らすこと。
保育園の数を増やすことばかりではなく、
広いアプローチで考えれば、
待機児童という概念に当てはめられる児童を減らすことが、
それこそ解決策で、
それなら出来るんじゃないかとも思う。
活躍は、お給料をもらう事ではないとも思う。
子育てという親が直面する事実において『活躍』とは何なのだろうか?
少なくとも、僕が敵わないくらいに、子育てに活躍している人をいっぱい見てる。
これも、『活躍』である。
世帯収入ばかりに目を奪われがちだが、
これからを、世界で生き抜いて行く子供たち、
未来を育てることは、今稼ぐより、どれだけ責任あることか。
そりゃ、僕だって、収入は上げたい。
世帯収入だって、貯蓄だって増やしたい。
だけども、それ以上に大切なことがあって、
それを守ることができれば、
今は、なんとか…とも思うのです。
先日から何度か、似た様なことを綴っているけど、
画一的な価値観で、そればかりが善とされてしまうと、
問題解決へは遠回りし、しかもアジェンダがすり替わってしまう。
ちょっと危険な風潮かなと。
あまり声を上げることのない現実の中の幸せを見つけたポイントにある方々の声からは、あまりに乖離しているところで話が進んで、議論が、その場しのぎになってしまうようにも。
そんなことを、元待機児童であった、保育園に行ってない子
(行けてない…ではない)
そんな一人を前にして思うのです。