最近のニュースでは、
こぞって『我感覚が正しい也』と言わんばかりの、
『問題にする』前提での記事が多いようにも思われる。
それは、新聞に留まるだけでなく、
個人の意見は意見ではなく『批判』のみである事がほとんど。
『そういう考えもあるのね』
と、相手の意見を認める事からスタートせず、
誰かの意見に対し、『アホ』『バカ』『オカシイ』
などの意識から入って、
結局は『誰かの意見を否定するだけ』の
それが、
『自分の意見』とでもあろうかのような…。
『そうそう考えもあるのね、でも、私の場合はこう考える!』
という、
自分の意見、その表明あっての、『それとは違う』でないのが、非常に残念。
こうなると、意見を表明すること、そうしている人が、損な役回りとなってしまう。
否、もうなっている世の中だと感じる。
つまりは、否定された方は、相手に話が出来なくなってしまう。
『正しい事』と言うのは一つではない。
いくつもの価値観に基づいた正しいがあってしかるべき。
例えば、
大阪の中学校の校長先生のニュース
これは、正しいとか間違っているかの判断に準じるニュースではないと思う。
そういう価値観もある校長先生なのね。
そんな考えもあるね。
それくらいに留めておくべきだと僕は思う。
で、学生が取捨選択する価値観であっていいとおもう。
世の中に正しい価値観は一つしかないのならば、
それは、そこから違えば否定されても仕方ないし、
問題になるべきだとは思うが、
そもそこ、正しい価値観は、一つではない。
国、文化、思考が違えば、色々な選択肢があって当然。
海外に対しての思考では、『それは仕方ない』と言えるのに、
なぜ国内での話題だと『アタマオカシイ』になってしまうのか。
こういう話題をクローズアップしている新聞を前にして、
社説を読んだり、推察も目にしてみる。
その時に、自分の思考と何が違っているのか、
何が乖離していると感じるのか。
自分の思考に冷静に向き合ってみる。
次には否定でなく、
そんな考えがある事を認める。
そして、『違っている思考』があること、存在していることを認める事。
いま、Twitterや、Facebookなどでも、
違った意見を認めない…
意見が存在する事すら認めない。そんな短文やら主張を目にする。
オカシイと思う事実に関しては、そりゃ否定するのは当然だけど、
思考を認めないのは、それこそ、
これからの価値観が、何かの勝敗によってシステマチックに判断され、
そこに『人』である意味がなくなってしまうのではないかと。
面白みのない価値観に支配された社会になってしまう。