ディレクターのFKD氏と一日で走破しているわけだが、 その100キロを超えるドライブの途中、よく話題に上がり、議論することがある。 それは『美しさ』や『綺麗』と言う概念について。 まあ、もっと下世話に言ってしまえば、 お互いの『好みのタイプ』だったり そんな話から始まるわけだが、 なぜ人によって、好みのタイプ、つまりは『綺麗』だと思う人の傾向が違うのだろうか…。そんな話題を真剣に突き詰めていくことがある。 もう何回もだ。 結構下世話な話題から、哲学的になっている。 極端なことを言えば、 首長族などは、首が極端に長い女性こそが美しい女性とされるらしい。 しかし、僕らは、そーゆー女性を見たとしても、なかなかそうは感じづらい。 そして男女ともに、セクシーさを感じる部分も違っていたりもする。 なぜそういうことが起こりうるのか。 人生の中の、どの段階で、そういうことが価値観として、 個人の中に決定付けられて行くのか? もし仮に、首長族の男性を、幼い頃から日本で育てた場合は、どうなるのか? それでもDNA的に首が長い女性を美しいと思うのだろうか…。 などなど、『綺麗』の概念についての議論は、FKDディレクターと尽きないわけだ。 少なくとも、僕に自信があるのは、ディレクターのFKD氏、 彼の好みは分かっているつもりである。 同じように彼も僕の好みをわかっている。結構そこは間違いがない。 そしてその感性をお互いに認め合うところでもある。 一方で、『きれいでない』、『美しくない』といった方向性に関しては、 多くの人が共通見解を得る部分でもあるのではないだろうか。 ただ好みと言うことに関しては、 それこそタイプは片桐わたり、すべての理想が違っている。 娘が通っている幼稚園、そこでもやはり綺麗なお母さんがいらっしゃる。 綺麗な先生だっていらっしゃるby FKDディレクター。 しかしそれは僕や彼ににとってであり、他人にとってはまた違うであろう・・・とも。 それぞれの『綺麗』の概念から言えば、また違っていることも、至極当然。 そう考えていくと、 きれいと言う概念については、人それぞれほんとに多くの概念や理想型があり、 それこそ、『きれいな人』という言葉から、 『きれいにする』と言う事まで、 全く意味が違ってることだってあり得る。 子供に、『きれいにしなさい!』と言うことを言う時にも、 その綺麗と言う言葉の目指してる方向性が違っていたりもする。 例えば、うちの場合は、家内が言う場合の『きれいにしなさい!』は 『片付けなさい』に置き換えることができるかもしれない。 一方僕が言う『綺麗にしなさい!』…と言うのは 『磨きなさい』、『拭きななさい!』と言うようなニュアンスだったりもする。 つまりは『掃除機をかける』なども僕の場合の『きれいにしなさい』。 それに相当するわけだ。 だからといって、きれいにしなさいと言う言葉の概念について、 お互いに否定しあったりするわけではなく、 その言葉のニュアンスを理解した上で言葉として使い、利用している。 さて、綺麗や美しいと言った概念に関しては、 車に例えると、わかりやすいかもしれない。 それぞれ、好きな車があるわけだが、一番欲しい車は? 一番手に入れたい車は? 一番美しいと思う車は? 一番乗ってみたい車は? もう、この答えは千差万別。 理想のクルマだってみんな違う。 だからこそ、いろんな自動車メーカーがあって、 いろんな車種がある。 理想のクルマだって、 フェラーリという人もいりゃ、パジェロという人もいる。 スポーツカーであったりSUVであったり・・・。 そして、自分の置かれた環境によって、現実的に変わってくることだってある。 まあ、無限にお金がありゃ、そりゃGT-Rなんて選びたい僕がいるけど、 僕にはランボルギーニやらフェラーリ以上に GT-Rにセクシーだと感じるし、頬ずりしたいと思う。(笑) でもさ、現実的にはエクストレイルnismoとかが理想だったりね。 必然と環境によって・・・というのは分かるけど、 似たような環境でも、好みのタイプが違ってくる人間の面白さ。 綺麗という概念は、どこが原点なのか?? 美学概論の研究でも、そこは教えてもらわなかったなぁ・・・なんて。 まだまだ100キロの取材ドライブでは、話がつきそうにはないな。毎週100キロを超えるドライブを、取材のために
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綺麗・・・の概念
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