悲しい事件が起きた。
22歳青年、バイクで47都道府県走破する旅の終わり、自殺予告し川治ダムに飛び込む「最後に日本一周出来て幸せだった、さようなら」
彼の生き方にまつわるもの、
それらの多くが、僕の生きている上での大切な存在、
そんな環境を包んでいるものでもある。
僕の愛しい人たちにも関わるもの。
ゆえに、このニュースと事件には衝撃を受けつつ、
正面から向き合わなきゃならないなと…。
少なくとも、家族を自死で失っていることは、
それまでの自死に対する自分のどんな想像よりも、
向き合うことを強いてくる。
そして、そこに向き合うことを強いられたのは、
自分だけではなく、同じように残された家族みんなが、
同時に、時として、偶発的に。
するとまた、家族内でそれは伝播するわけで、
乗り越える・・・なんてないと思っている。
今更、どうこう言おうと、なにも取り返せない。
でも、イントレランス、はびこっているんだよな。
僕が嫌いなものに、頭でかちがある。
何でもかんでも首突っ込んで、
でも、全身では浸からない。
あくまで頭だけ。
それで、あーだ、こーだ言う奴。
そして自分を情報強者だと思いこんでいる奴。
大っ嫌いだ。
でも、
間違いなく、彼は、頭でかちじゃなく、経験した。
いろんなことを、いろんなとこを、経験し、体感した。
そんな彼に好感を持つが、ラストはいただけない。
でも、そこも含めて、彼生き様だったんだろうなと。
彼は、最期、何を考えていたんだろう。
満足だった?それとも、絶望だった?
僕には絶望のようには感じない。
何かの満足感があったんではなかろうかと。
僕の弟もそう。
絶望感の上に、復讐という、それを達成すべき方法を
見つけてしまい、弟は実践した。
しかし、当時のメディアは、強い立場の者の発言しか注目せず、
また、それが事実化のように伝わっていってしまっていた。
当時のメディアや芸能界とは、そんなものだったんだろうなと。
真実とは別のものが、あたかも真相のように。
今の時代ならば、どうにか出来たこととも思うけれど…。
最期を想像してみる。
何を達成しようとしたのか?
達成したから、何かの満足感だったのかどうなのか?
最期、川治ダム・・・
僕にも思い入れ深い場所だ。
なぜ、その場所だった?
でも、聞けない。
そこに行って、川治ダムで、考えることをしたいと思う。
なんとか今月中に。
想う事、それが供養にもつながるんじゃないかな。
正解はない。
けれど、感じたことを、冷静に行動に。
境界線は、見つけられないなだろう…。